小松直行の週刊オフチューブ ?今季も最終コーナーに突入!?
2015年8月6日(木)午後5:40
LIVE FROMのMCや欧州ツアー中継の実況を担当している小松直行アナウンサーが、ゴルフ最新ニュースをピックアップ。小松さんならではの視点からゴルフ界の最新動向をお届けします!
目次:
・今季も最終コーナーに突入!!
・大統領自由勲章を贈られるC・シフォードとは?
第2回 ターキッシュエアラインズオープン presented by トルコ政府青少年スポーツ省
アメリカPGAツアーではビリー・ホーシェルが、プレイオフの最後の2試合を連勝してフェデックスカップ総合優勝をものにしました。
欧州賞金王を決めるレース・トゥー・ドバイでも、ローリー・マキロイ逆転劇が起こるのか。欧ツアーのクライマックス、ファイナルシリーズも上海2連戦が終わって、今週のトルコ、そして最終戦ドバイを残すのみ。
マキロイを追い落とすことができるのは3人に絞られました。2位ジェイミー・ドナルドソン、3位セルヒオ・ガルシア、4位マルセル・ジーム。3人ともトルコでの優勝が必要です。
連勝は生易しいことではありませんが、マキロイが今年8月にブリヂストン招待と全米プロゴルフ選手権に続けて勝ったように、欧ツアー史上、これまで33人が公式戦2連勝を成し遂げています。
そのうち2人はシーズン最終の2戦を勝ち取っています。1974年にはピーター・ウースターハウス、1976年にはバルドヴィーノ・ダスーが達成。1974年のウースターハウスは賞金王4連覇をもぎとりました。
今週も出場しないR・マキロイは、最終戦最下位賞金を加えて5,427,869ポイントになります。J・ドナルドソンが連勝なら5,790,483ポイントになるので、マキロイは来週のドバイで5位以内に入らないと逆転されてしまいます。
S・ガルシアが連勝なら5,696,662ポイント。マキロイは7位以内が必要。そして、すでにファイナルシリーズ緒戦のBMWマスターズに勝っているM・ジームがさらに連勝で締めくくるなら、マキロイは17位以内に入らないとうっちゃられてしまいます。
舞台は今年もトルコ南西部、地中海に面するアンタルヤ。中心街より車で約20分、ベレク地区にあるザ・モンゴメリー・マックスロイヤル。名のとおり、欧賞金王になること7年連続を含む8回。世界ゴルフ殿堂入りを果たしているコリン・モンゴメリー設計で2008年に開場したコースです。
一方に青い海と白い砂浜。もう一方にみずみずしい緑のゴルフコース。年間300日は晴れるというアンタルヤですが、金曜日午後から不安定になり、土曜日まで雷雨のおそれあり、という天気予報です。
【ターキッシュエアラインズオープン 放送日時】
1日目:11月14日(金)午前7:00?ひる0:00
2日目:11月15日(土)午前7:00?午前10:00
3日目:11月16日(日)午前5:00?8:00
最終日:11月17日(月)午前7:00?ひる0:00
*フィールドは78名。トルコゴルフ連盟からの推薦3名とスポンサー招待4名を含みます。アメリカからジョン・デイリーが招待出場。
*C・モンゴメリーは今季シニアデビューしてすでに4勝(メジャー2連勝)。今週は欧ツアー通算600試合出場をめを、みずから設計のコースで果たします。
*最終戦は今週終了時点でのポイントランキングから上位60名が出場資格なので、60位前後のプレイヤーの踏ん張りが見られることでしょう。いまの60位はエディー・ペパレル。62位のマーテン・オーラム・マッドセン、63位のアレハンドロ・カニザレスをはじめ22名が、ハーフウエイカットなしの4日間を全力で戦うことになります。
*去年はタイガー・ウッズ出場のこの試合で、フランスのビクター・デュビソンが華々しい初勝利を遂げました。二日目に首位に並び、三日目に63で5打差の単独首位となって迎えた最終日、デュビソンは前半パープレイ。14番でボギーにするも、残り4Hで3つのバーディーをものにして勝ち抜きました。ドナルドソンが16番ホールインワンもあって63で猛追しましたが2打差。Tウッズは70-63-68で6打差から最終日に入るが67で及ばず。
*先週のWGC-HSBCチャンピオンズは腰痛のために二日目で棄権したデュビソン、初めてのディフェンディングです。
今週、アメリカのバラク・オバマ大統領は大統領自由勲章(Presidential Medal of Freedom)の受章者を発表しました。議会金章(Congressional Gold Medal)と並んで、文民に贈られるこの最高位の勲章の栄誉を授かったのは19名。スティービー・ワンダーやメリル・ストリープ、TVニュースのアンカーを長く務めたトム・ブロコウらと並んで、チャーリー・シフォード(92歳)の名がありました。
シフォードは2004年に世界ゴルフ殿堂入りを果たしています。その年には日本の青木功さんも一緒だったので殿堂入りの式典はことのほか強く印象に残り、私はシフォードの記録を辿り,自伝を読みました。さらに10年を経たいまも考えさせられることの多いシフォードの半生について、そのとき記したメモから書き起こしてみました。
2004年4月のある日の午後、オハイオ州にすむ82歳のチャーリー・シフォードの自宅に、米PGAツアーのコミッショナー、ティム・フィンチェムから電話がかかってきた。いつものように弁護士らしい穏やかな口調でフィンチェムは、シフォードの世界ゴルフ殿堂入りが内定したことを伝えた。
「自分自身、信じられなかったよ」
同年11月15日の殿堂入りセレモニーでシフォードはそう言った。公式発表されるまで口外しないようにと告げられたが、そうでなくても誰に言うこともできなかったと言った。式典までの6か月は、道路を渡るときにも何度も左右を確認して、「とにかく死なないように気をつけていたんだ」と笑った。多くの受賞者が原稿を見ながらする受賞スピーチで、シフォードは何も持たず、思い出を少し語り、涙をこらえることができず何度も絶句した。
1960年にシフォードはアフリカ系アメリカ人として初めて、米PGAツアーのメンバーの地位を勝ち取った。目標はツアーで優勝すること、米国内での3つのメジャーに出場すること、そして殿堂入りだったと語った。2004年に一緒に殿堂入りを果たしたのはトム・カイト(Tom Kite;米PGAツアー19勝、賞金王2度、1992年全米オープン優勝)、青木功(世界73勝、日本人初の米PGAツアー優勝)、そしてカナダのアマチュアであるマリーナ・ストレイト(Marlene Strait;2003年に69歳で全米シニア女子アマチュア優勝、過去6つのディケイドでナショナル・チャンピオンシップに優勝)。
シフォードの戦績は米PGAツアー2勝(1967年Greater Hartford Open、1969年Los Angels Open)だけ。ゴルファーにとっての夢の祭典、マスターズに招待されたこともなかった。
「チャーリーは試合に勝った。そしてそれ以上に重要なことは、彼は壁を打ち破ったということだ」
ジャック・ニクラスは、シフォードがゴルフ界で成し遂げたことには記念碑的意味合いがあると言った。シフォードはゴルフ界のジェシー・オーウェンス(1936年ベルリン・オリンピックでヒトラーの眼前、4つの金メダルを獲得)であり、ジョー・ルイス(1937年から1949年までボクシング世界ヘビー級チャンピオン)であり、ジャッキー・ロビンソン(アフリカ系アメリカ人初のメジャーリーグ・ベースボール・プレイヤー、1947-56年ブルックリン・ドジャース、1962年アフリカ系アメリカ人初の野球殿堂入り)だ。生涯功績部門での今回の殿堂入りは多くの人々を納得させ、ようやく実現したのかと安堵させたはずだ。シフォードはアメリカのゴルフを変えただけではなく、アメリカそのものを変える流れの一部だったからだ。
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タイガー・ウッズがマスターズで優勝した1997年には、ゴルフ界に新たな時代が訪れたことを多くの人々がワクワクする思いで祝福したが、アフリカ系アメリカ人のプロゴルフは、そこから遡ること50年前に始まっていた。
チャーリー・シフォードはノース・カロライナ州で生まれ、13歳でキャディーの職を得たときにはパーで回るほどの腕前になっていたという。1947年、黒人だけで構成されるUnited Golf Associationの試合に初参加し、そのナショナル・チャンピオンシップで5連覇を含む6勝をあげた。そして、PGAの試合で実力を試したいと願った。
シフォードの前にもテディーローズやビル・スピラーといった黒人プレイヤーが同じように願っていたが、『白人限定』をポリシーにしていたPGAには入れなかった。シフォードの苦境を知ったカリフォルニア州の司法長官スタンリー・モスクの働きかけで、ついに1960年に39歳でトーナメントプレイヤーの資格を得た。
自身は1947年から1960年までが自分のゴルフのピークだったと回想するが、その1960年から晴れ舞台でプレーし始めたシフォードの後を追って、優れた黒人プレイヤーがツアーで活躍するようになる。ピート・ブラウンが1964年のWaco Openでアフリカ系アメリカ人として初めて優勝。1975年にはリー・エルダーがマスターズに初めて出場。カルビン・ピートはその正確無比なティーショットでPGAツアー12勝をあげた。1997年にウッズがグリーン・ジャケットに袖を通し、2000年に生涯グランドスラムを達成するのも、シフォードの切り開いた道の上にある。
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「おまえはすぐやめる弱虫か? もし弱虫でないのなら、この先、やめたくなるような出来事をいくつか経験することになるだろう」
当時、ジャッキー・ロビンソンはそう警告したという。
1952年のフェニックスオープンのマンデー予選で、1番グリーンへ上がってきたチャーリー・シフォードは、ホールの中に糞便が詰められているのを見つけた。
1961年、出身地のノース・カロライナでグレーターグリーンズボローオープンに出た際には「殺すぞ」という脅迫電話を受けた。フェアウエイを歩けば水をかけられ、口汚くののしる声が飛んだ。その試合で4位に入ったシフォードは大きな勝利のように感じたという。
「南部で初めての試合だったが、周囲からの圧力と差別は最悪だった。でも私は参らなかったし、プレイをやめようとは思わなかった」
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勇気と決意、鉄の意志は賞賛されるにふさわしい。しかし、そういうストーリーならたくさんあるだろう。我々が心打たれるのは、シフォードを突き動かしていたのが差別と戦う先駆者たる気負いではなく、もっと単純なものだった点だ。ゴルフで自分を試したいという思いだったのだ。ゴルフをしたくてたまらないという願いだけでプロになり、誰かを打ち負かして勝利のトロフィーを手にしたいという気持ちだけがトーナメントに出場する原動力だったとシフォードは語っている。
「とにかく私のしたかったのはゴルフだ(All I ever wanted to do is play.)」
チャーリー・シフォードは1992年に自叙伝『JUST LET ME PLAY(ゴルフをさせてくれ)』を出版した。成し遂げてきたことは、間違いなく人種差別を克服しようとするアメリカの苦闘の一部だ。しかし、それは彼自身のゴルフへの熱情に裏打ちされた努力であって、公民権運動の旗手になるためのシナリオではなかった。その願いが、ただゴルフがしたいという素朴で無垢なものであったからこそ、シフォードは挫けず、脅迫に屈せず、嫌がらせを乗り越え、世の中を変える力になった。
それはそんなに遠い昔の出来事ではない。そして、日本人と無関係なことではない気がする。
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プロゴルフではときおり、ギャラリーの野次(heckling)が問題になる。心ない者はどこにでもいるし、シフォードのくぐり抜けてきた状況とは比べものにならないが、ゴルフにおける野次に楽しめる要素はない。他愛ないものであっても後味の悪さは残る。私たち自身の中に少しでも、人を傷つけ、苦しめることで何らかの満足を得るような本性が潜んでいることを、嫌悪せずにはいられない。
同時に私は、私たちの内にある強さにあらためて驚き、誇りに思う。シフォードを思うとき、プライドはダイアモンドだ。人を突き動かす意志の力は、誰にも、どんな手段によっても決して曲げられず、挫けさせられないものだとわかる。
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「許して、前を向いていこうと決めたんだ。それでなけりゃあこんなに長生きしてないぜ」
チャーリー・シフォードは自らの経験を振り返ってそう言った。ゴルファーに肌の色は関係ない。そして、もちろんそれだけではない。プレイヤーがいかなる崇高な、あるいは軽蔑すべき、あるいは同情すべき悲壮なストーリーをもってプレイしていたとしても、ゴルフの優劣を決めるのは上がってきたスコアだけなのだ。
私たちはいま、結果がすべてだと言い切れるだろうか。冷徹なまでに潔くあり、他者にもそれを求めることができるだろうか。もし“Yes”なら、私たちにとってゴルフが好きだという事実以上に楽観的になれる要素はないだろうと思う。
(参考文献)
1)Charlie Sifford: Just Let Me Play. British American Publishing, New York, 1992
2)LELAND STEIN III:a PROFILE IN COURAGE ---Charlie Sifford. http://www.afrogolf.com/page7.html
3)Ron Sirak: CHARLIE SIFFORD--- to be the 1st Black into the World Golf Hall of Fame, http://www.afrogolf.com/charliesiffordHOF.html
4)DOUG FERGUSON: Sifford breaks another barrier with spot in golf Hall of Fame. AP通信、2004年11月13日付記事