小松直行の週刊オフチューブ
2014年11月27日(木)午後6:41
LIVE FROMのMCや欧州ツアー中継の実況を担当している小松直行アナウンサーが、ゴルフ最新ニュースをピックアップ。小松さんならではの視点からゴルフ界の最新動向をお届けします!
目次:
*オープン・デ・エスパーニャ
*S・ガルシア、G・F-カスターニョら、スペイン勢の大舞台
*歴代勝者の肖像:T・レベ(2009)
*小松の小耳
?オープン・デ・エスパーニャ?
日本が欧州で最も長い友好の歴史をもつ国の一つ、スペインのナショナルオープンです。オープン・デ・エスパーニャ、スペインオープンは1912年に第一回が開催されて以来、今年で89回目。
欧州のナショナルオープンとしては6番目に古いという伝統の一戦。欧ツアーにとっては、1972年の発足シーズン最初の一戦がこの試合でした。
欧ツアーが初年度である1972年から今年までずっと日程に入り続けているのは7試合。このスペオープン,全英オープン、フランスオープン、オランダオープン、BMWPGAチャンピオンシップ,ヨーロピアンマスターズ、イタリアオープンだけです。
1972年の欧ツアー組み込み以来、地元スペイン勢の優勝は4回。アントニオ・ガリド(1972年)、セベ・バレステロス(1981, 1985, 1995)、セルヒオ・ガルシア(2002年)、アルバロ・キロス(2010年)。欧ツアーでのスペイン勢は171勝、これはイングランド、アメリカに次ぐ勝利数第3位。優勝者の数は28人です。2014年シーズンは21戦ですでに4人が勝っています。今週は若手からベテランまでが自国ナショナルオープンを狙います。
?PGAカタルーニャリゾート?
今週の舞台であるPGAカタルーニャリゾート・スタジアムコースは、7,333ヤード、パー72。欧ツアー12勝、ライダーカップ8度出場のニール・コールズとアンヘル・ガラードによる設計で1999年開場。すぐにスバル・サラゼンワールドオープンという欧ツアー公式戦が開催され、トーマス・ビヨーンが日本の友利勝義選手に2打差をつけて勝っています。
スペインオープンは過去に2度開催。2000年はブライアン・デイビス、2009年はトーマス・レベが勝ちました。また2009年から欧ツアーのQスクール・ファイナルが開催されてきています。その優勝者にはサイモン・カーン、サイモン・ウエイクフィールド、デビッド・ディクソン、ジョン・パリー、カルロス・デル・モラルがいます。コースレコードは63(-9)。ソーレン・ハンセンが2009年スペインオープン初日に出しました。
もともとの急な谷のある岩だらけの土地に作られたコースは松やスパニッシュオーク、オリーブの木に縁取られ、ティーが高い位置にある8ホールはティーショットの行方に特に気を使います。ところで、ツアーコース(2005年開場)とあわせて36ホールあるPGAカタルーニャリゾートの特徴は、ユニークな練習施設です。
練習設備は万全
とくにバンカーは世界各地の名コースのバンカーを再現。形状、砂質。オールドコース、ぺブルビーチ、オーガスタナショナル。ハワイのコースの火山性の砂まで。グリーンは完璧にフラットな部分から、微妙なアンジュレーションまで造られ、興味深いのは、グリーンのフラットな部分には、“サイズの小さなホール”が切られていること。ストロークのピュアさ、狙い通りの転がりが実現できているかどうかをチェックできるということです。
芝種もA4/A1ミックスのクリーピングベントから、バミューダ、パスパラム、ポアアニュア(すずめの帷子)まで用意されています。管理を統括するスーパーインテンデントのデイヴィッド・バテイラー氏は「ベントなら、うまく管理されていれば繊細で硬いグリーンになるし、カタビラのグリーンはだいたい柔らかいので、アプローチで止まりやすい。プレイヤーが芝種によるアプローチやパッティングの違いを練習できるというわけです」と胸を張ります。この一年半の間にも、ノルウエイ、フィンランド、デンマーク、ドイツ、オランダの代表選手たちが繰り返し訪れています。
<資料>:
http://www.europeantour.com/europeantour/season=2014/tournamentid=2014038/news/newsid=222785.html#tS0BwlpvPckXBwOs.99
<オープン・デ・エスパーニャ放送期日>
2014年05月15日(木)午後10:30?深夜1:30
2014年05月16日(金)午後10:30?深夜1:30
2014年05月17日(土)午後10:30?深夜0:30
2014年05月18日(日)午後11:00?深夜1:00(※最終日最大延長深夜4:00まで)
*:ミゲル・アンヘル・ヒメネスは27回目の出場、この試合が欧ツアーの通算626試合目となります。その最初は1983年のこの試合だったヒメネスですが、以外にも過去26回でベストは1999年の2位、トップテンには4回しか入っていません。プレッシャーでしょうか。セルヒオ・ガルシアは2013年に10年ぶり出場。今年もフロリダから帰国して2勝目を狙います。
?過去大会勝者の肖像?
「セベのことを考えていた」:トーマス・レベ(2009年)
「セベ、この優勝をあなたに捧げたい」
優勝杯が手渡された時のインタビューで、トーマス・レベはテレビ・カメラの方を向いて言った。欧州ゴルフの立役者たるセベ・バレステロスは、2008年秋にスペインの空港で倒れて脳腫瘍と診断され、4度の開頭手術を繰り返した。その後の化学療法の経過は良好で、体力も回復しつつあると伝えられていた。自国のナショナル・オープンであるこの大会で3勝しているスペインの英雄が、まさに生涯最大の戦いに打ち勝とうとしていることは、スペイン人プレイヤーのみならず、欧ツアー全員の祈りであり、この試合で戦うことに特別の意味を与えていた。優勝したフランスのトーマス・レベが開口一番で言ったことには、世界中のファンが共感したことだろう。そして、レベ自身も、ゴルフがただのゲームでしかないと思い知った後だったから、この優勝をどれだけうれしく感じたことだったろうか。
セベ:欧ツアープレイヤーのインスピレーションの源泉
セベ・バレステロスは、17歳でプロ入り。初めて出た試合が、月曜予選を勝ち抜いて出たスペインオープンだった。以降、1979年にロイヤルリザムでの全英オープン初勝利から、マスターズ2勝、全英3勝。欧ツアーで50勝をあげ、欧賞金王6度。1976年に最初のオーダー・オブ・メリットのタイトルをとってからの20年間は、世界のゴルフに独特の存在感で君臨していた。
ゴルフというゲームでは、思惑通りに行かなくても、そこから何が出来るのかが勝負を決するものだということを、あらためて印象づけたのはバレステロスだった。時として神がかりとも思えるようなリカバリー・ショットを成功させてみせるセベのプレイぶりを、人々は讃えた。可能性を信じて挑戦すること、華麗な技と集中力、そしてそのもとにあるパッションの意味を見いだしたのだった。
1986年には欧ツアー初の年間6勝を、出場14戦のうちにあげている。6月第1週のブリティッシュマスターズで勝った後、次の週は休んで第3週のアイリッシュオープンで再び勝つや、翌週のモンテカルロオープンにも勝ち、そこからパリへ行ってフランスオープンにも勝って3週連続優勝。
その翌週を休み、明けて臨んだターンベリーでの全英オープンでは、レベルパーで勝ったグレッグ・ノーマンに8打差の6位タイ。しかし、週末の2ラウンドで60台のスコア。ほかに69が6人、68が1人しかいなかったなかで、最終日に64で上がったバレステロスは強烈な印象を残した。勢いを駆るようにして、翌週のオランダオープンで8打差の圧倒的優勝。ここまでの8週間で5勝。3週連続を含め出場4試合連続優勝、53日間で5回の優勝をものにした。
その後、バレステロスは10月に再びパリへ戻って、ランコムトロフィーの優勝をランガーと分け合い、年間6勝を遂げた。その年のツアーの試合数は全28試合でしかなかった。バレステロスはこの年、ほかに2位が2回、3位が1回、4位3回、全英6位タイ、ジャーマンオープンで10位タイ。つまり出た試合はすべてトップテンに入って4度目の賞金王になった。ちなみに、その前年には11戦4勝、1988年には14戦5勝しており、戦績的にはその数年間が絶頂期だったといえるだろう。
英米対抗戦だったライダーカップが、「欧米」対抗に変わる背景にも、旋風のごときセベの活躍があった。ライダーカップではオラサバルと組んで15戦11勝2敗2分けという歴代最高の勝率を残し、不撓不屈の精神を体現したようなプレイぶりをファンの記憶に刻んでいる。
日本では、1977、78年の日本オープン連覇を含む6勝が衝撃的な印象を与え続けた。ピークにあった頃の圧倒的強さや、逆境で見せる集中力と闘志、神業のようなリカバリーショットは、そのままバレステロスのカリスマとなり、記憶はゴルファーのみならず世界のアスリートのインスピレーションの源泉となっている。
1986年のフランスオープンは、17歳のアマチュアだったトーマス・レベが初出場を果たした試合だった。レベは77-79(+12)でカット落ちしているが、ときのスーパースターが初日からトップに立ったまま65-66-69-69の19アンダーというスコアで勝っていくさまを、目の前で見ていたのだった。40歳を越えたレベが自分の来し方を思いやり、少年期に鮮烈な印象を与えられたバレステロスを思いながらプレイをして、しかもスペインオープンで勝ったというのは感無量だろう。しかし、もうひとつ、レベにとってバレステロスの病魔克服を祈る気持ちを強くしていたのは、レベ自身の闘病経験だった。
めまい
レベの世界がふいに現実感を失ったのは、2006年6月、米ツアーのNYでのバークレイズ・クラシック出場のために、ウエストチェスターCCに着き、車をバックさせようと左肩越しに後を向いたときだった。突如として襲っためまいのために、そのまま身動きもできなかった。
「まるで洗濯機の中で回っているような5分間だった」
自分の手が届いている車のキーを掴むことさえできず、ただ何かが通り過ぎるのを待ったという。それが何なのかは理解できないまま、なんとか車から出るが、まっすぐ歩くことが出来なかった。携帯電話でキャディーにすぐ来てくれと頼んだ。ロッカールームまで行こうにも動けないから、医者も呼んでくれ、マジなんだと告げた。
その後8月いっぱいまで5試合に出るには出たが、その間にもめまいの発作は繰り返しレベを襲い、翌7月にはさらに悪化した症状に苛まれた。歩こうにもバランスを失い、世界はくねくねと動いて定まらなかった。
「10分起きていたら、3時間は横になっているという状態だった。ひどかったですよ」
医者を父にもつレベはそのつてを頼り、現在の住まいのフロリダに妻のキャロラインさんと3人の子どもたちを残し、フランスへ戻って専門医の治療を受けた。専門医は必ず治癒すると確約したが、少なくとも半年はかかるだろうと告げた。めまいの発作は突如として起こり、なかなか消えていかないために、その間には何も出来なかった。ただ、薬と食事療法、そして内耳前庭リハビリテーションと呼ばれる方法で、めまいの引き金になると考えられる刺激を脳が打ち消すように訓練する療法を行った。頭を左に向けることを20分間続け、今度は右へ20分間、というようなもので、「それはもう楽しくて楽しくて・・・」とレベは皮肉を言っていた。
周囲にいる者をつねに笑わせる陽気で明るいレベもこの時ばかりは落ち込み、ゴルフがめまいの原因となるのならば引退も、と考えたという。2006年の暮れのことだ。
「フロリダの家のローンはどうしよう。いま、売るべきだろうか?来年はどうなるんだろう」
しかし、同じ症状に3か月間悩まされたデビッド・デュバルのことや、4か月で克服したピーター・ハンソンの話を知り、発作も押さえ込めるようになって来て、落ち着いた気持ちを取り戻した。
じっとしているよりほかにやることが無かった時間の中では、これまで自分が成し遂げて来たことにも、思いを巡らせた。1994年には米PGAツアー史上初のフランス人プレイヤーとなったこと。1998年カンヌオープンでの初優勝、2001年のブリティッシュオープンでの2勝目、2002年のミュアフィールドでの全英オープンで、プレイオフの末の一騎打ちでアーニー・エルスに負けたこと。そして輝かしい2004年のスコティッシュオープン優勝。その最終日の63の喜びに満ちた手応えは、その年のライダーカップ出場へつながり、9ポイントの歴史的大差で勝利したことは、もちろんゴルファーとして最大の思い出だろう。
レベが欧ツアーに復帰できたのは、最初の発作からほぼ一年後の2007年5月、アンダルシアオープンだった。めまいの発作がコントロールできるようになってからも時間がかかったのは、ほぼ半年間の寝たきりに近い生活がレベの体力を極端に落としていたからだった。その復帰戦で週末まで戦って34位タイに入り、ある程度の自信を取り戻し、2007年は17試合でトップテンにも4回入った。体力も回復していき、フル出場となった2008年には、3月開催となったアンダルシアオープンでプレイオフを制してキャリア4勝めをあげた。そして2009年シーズン7戦目のこの試合に勝った。
「いいプレイが出来て、ナショナル・オープンに、それもスペイン・オープンに勝てたことは本当に感激です。私は子どもの時からずっと、セベ・バレステロスを仰ぎ見てきたんです。きょう優勝できるまでにも、私は彼のことを考えていました。セベはコースに出たらつねに勝利を目指して全力を尽くしていた。いま、病に冒されているけれど、同じやり方で闘って欲しいと願っています」
このキャリア5勝目に先立つ3週前のメジャー、マスターズには、仏国内へのテレビ中継のための解説者として参加していた。世界のトップ・プレイヤーたちのゲームを見つめながら、連日、座りっぱなしでしゃべったおかげで腰が痛くなった、とこぼしていたが、じつは何よりも重要なことを教えられたという。
「タイガーが見せてくれたのは、何も特別にいいプレイが出来なくても、勝てる、優勝争いができる、ということでした」
「優勝する者だってミスをする、ということを私は教えられたし、そのことがわかってから、私はプレイがうまくゆかないときにも、あまり神経質にならないでいられるようになった」
「目から鱗が落ちると言いましょうか、勝つためには何をしなくてはならないかということを、もっとよく意識できるようになりましたね」
「ときとして、がんばり過ぎてしまうんですよ。でも、完璧なプレイをする必要なんて無いんです。テレビの解説をしていると、そのことがよくわかる」
「だれでも、失敗はするものなんですから、私は試合中にとても穏やかでいられるようになりました」
ゴルフは、生きるか死ぬかのゲームではないし、賞金が稼げないと生活には困っても、死にはしない。レベは少し達観したのかもしれないが、現実的になったということか。あるいは、最後まであきらめずに戦い抜くというセベの精神が、模倣ではなくレベ自身のもの、レベ流になったということかもしれない。
<資料>
1)2009年スペインOPインタビュー・スクリプト
2)英 The Sunday Times紙、2007年5月20日付記事
http://www.timesonline.co.uk/tol/sport/golf/article1813702.ece
3) http://www.europeantour.com/default.sps?pagegid=%7B5A258B31%2D8294%2D4C0E%2DB8B9%2DA796F6009E52%7D&newsid=414608&date=3%2D26%2D2007&listPageName=ET+TourNews+%2D+European+Tour
4)Levet masters art of winning thanks to Tiger:英Scotsman紙、2009年5月6日付記事。
【小松の小耳】
R&Aのピーター・ドーソン氏2015年に引退:R&Aの統括者で、創立260年を誇るロイヤル・アンド・エンシャント・ゴルフクラブ・オブ・セントアンドリュースのセクレタリーであるピーター・ドーソン氏が2015年9月で引退すると表明。16年間の職務に終止符を打つ。1999年に前任のサー・マイケル・ボナラックからセクレタリーの職を引き継いだドーソン氏は、全英オープンの運営や、USGAとの協調による世界的なゴルフ振興に尽力し、そうした仕事のための組織を、2004年に私的クラブと分離して再編成した。全英オープンの収益を、ゴルフが未来へ向けて存続可能なスポーツとして発展するための各種事業に投資し、世界各国のゴルフ振興に助成金を供与し、人材養成、ルール教育、技術指導、コース管理、参加人口底辺拡大のための各種の施策の研究開発に取り組んできた。R&Aと提携関係ある組織は世界138カ国の152団体。国際ゴルフ連盟の共同議長として、2010年には五輪ゴルフの復活を実現させた。後任はスペンサースチュアート社が担当する(R&A広報4月22日付発表より)。
D・トランプ氏、ターンベリーを買収:米不動産王のドナルド・トランプ氏が、全英オープン開催コースの一つ、スコットランドのターンベリーを買収する見通し。世界最高のゴルフリゾートを目指すトランプ氏は当面、コースの改造はR&Aの要請、承認のないかぎり考えていないというが、ホテル等施設はすぐにもアップグレードするとのこと。「トランプ・ターンベリーという名称なら、いい響きだと思わないか」というトランプ氏の夢は、自分のコースでのメジャー開催。67歳、母がスコットランド出身。
<資料:http://www.golf365.com/news_story/0,17923,9786_9289746,00.html>
ツアーキャディー、イアン・マグレガーがラウンド中に急死:先週のマデイラアイランドオープンはツアー公式戦通算1500試合という節目の試合だったが連日の霧のために36ホール競技となった。そればかりではなく、悲しい出来事も起きて異例の試合となってしまった。日曜日のファイナルラウンドの最中に、キャディーが亡くなるという不幸があった。スコットランドのアラステア・フォーサイスについていたジンバブエ生まれのキャディー、イアン・マグレガーが残り火とホールとなったところで、山岳コース的な起伏の激しいコースの9番ホールの途中で突然の心臓発作に倒れ、すぐに到着した医師の手当ての甲斐もなく亡くなったマグレガーは53歳の誕生日を翌日に控えていた。ツアー運営側は、騒然たるコース上のプレイヤーに、ラウンドを終えるように指示し、競技は終了した。しかし、キャディー急死の直後にプレイをすぐ再開させたツアーサイドへの批判が、プレイヤーから相次いだ。
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